帰宅願望

2018年4月25日(水)
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野鳥の会より

ここのところブログを随分ご無沙汰していた。気が付けば4月も下旬、この分だと四月は二回ぐらいのアップに留まるかもしれない。
なぜか最近は随分疲れる。わけもなく体がだるいのだ。朝起きるとき、果たして今日は起きられるだろうかと思うのだが、決まりの朝のコーヒーを入れなくてはならないから、重い腰をベッドから引き上げてキッチンに行く。豆を挽くころになると、だんだん体が慣れてきて、一日がどうやら起きて過ごせそうになる。
昨日、整形外科で月一度の脊椎のブロック注射に行き前回の血液検査の結果を聞く。腎機能の数値が少し高いという。内科医に相談してはとの助言を受ける。もともとクレアチンの数値が少し高いのだが、今回は少し高すぎる。だるさはその為なのか、だとしたらちょっと深刻だ。明後日に内科医に相談に行こう。というのも、明日はホームに妻を訪ねる日だからだ。
妻の様子は特に変化はないが、食事を少し残すようになった。今のところミキサー食をスプーンで一人で口に運ぶのだが、完食はしない。不順な気候のせいかもしれない。明日またよく観察しよう。
相変わらず帰宅願望が強く、それに満足のゆく応答が僕が出来ないから、僕の手に強く爪を立てたり、上靴で激しく蹴ったり、それでも満足できないと唾を吐きかける。不満への精いっぱいの抵抗なのだろう。せめて足が立ち食事が普通食になれば、家で外泊させたい。本当にその日が来ればどんなにか僕自身も嬉しいことだ。でも夢だろうか、切ない望みだろうか。誠に辛いことだ。自宅介護が無理なことは百も承知だが、それでも実現してやりたい。主のお導きに従おう。

祈り

2018年4月9日(月)
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三年まえのさくらんぼう
今年もさくらんぼうが実りそうだ。小梅が今年は豊作で、結構多くの実が鈴なりになっている。大きな梅はこれから花が咲くので、実るのは六月後半頃と思う。去年は不作だったから、今年は期待できそうだ。柚もそうで、昨年はあまり実らなかったが、それでも十キロ程度は収穫でき、柚ジャムに加工した。今年はたぶん豊作だろうから、柚ジャムをたくさん作りたいと思う。
こう書くと、実り豊かな木々におおわれた広い庭に思われるだろうが、実際はそうではない。もともと猫の額のように狭い庭にウッドデッキが張り出しているので、本当に狭い庭だが、そこに木々が犇めいているといった感じだ。
さて、このような書き出すつもりでなかったが、写真にひかれて筆が滑ってしまった。
タイトルを『祈り』と題した。何の祈りか、それは毎食前に献る祈りなのだ。朝夕とはまた別だ。なぜその祈りに触れたのか。それは食前の祈りに妻のことを常に祈っているからだ。妻のことについて悩むことが多い。それだけに主に訴えることが多いのだ。畢竟、祈りはながくなる。
しかし最近になって目が覚めた。情けないことだが最近なのだ。それは主は全てをみそなわすお方だ、それならばこちらがくどくど祈る必要はないではないか、そう気づいたのだ。
ならばひとことでよい『主よ全てをお任せいたします、聖心がなりますように』。思い煩うことはないのだと、説教者でありながら誠にお恥ずかしいが事実を吐露しよう。

椿の花

2018年3月27日(火)
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2017年の三月ごろは、妻はそれなりに元気だった。ショートステーにお世話になっていても、誕生日のお祝にも満面の笑顔で写真を撮って頂いていた。しかしそのころから、徐々に体力が衰え、食欲も細ってきて、みるみる痩せてきた。それでも会話は何の問題もなく交わせていた。が今はかろうじて片言のような会話の状態だ。
昨年の9月1日(このブログにも書いたが)早朝トイレに一人で立って行き、誤ってリビングのドアーをあけて転倒した。それ以来入退院を繰り返し、最終的には特別養護老人ホームに転居せざるを得なくなった。転居後は完全な介護の下にあるものの、原因が定かでないが、左手の掌がリュウマチのように拳を握りしめ、掌の機能が麻痺してしまった。そのためか掌がふやけてしまい、皮膚が溶け穴があいたような状態になっている。専門医の往診が定期的にホームの利用者になされているようだが、じっくり一人を診察する様子ではない。僕としては左手が不自由になったことも、掌がふやけてしまったこともその原因を知りたいが、なかなか機会がない。今週の木曜日が皮膚科の診察日だというので、是非会って説明を受けるつもりでいる。
今年の初め、左手の麻痺の原因を知りたく、MRIの診察を希望したが、周囲の反対で実現できなかった。つまりMRIの診察に耐えられるか、さらには知ったからと言ってどうする積もりか、という周囲の声である。たしかにそうであろう。だが僕としてはやはり知りたいのだ。理屈なく知りたいのだ。それが夫婦というものではないだろうか。
話が初めからそれてしまった。このようなことを書くつもりでなかったのだ。妻の健康の衰えに並行して、庭の手入れがなぜかできなくなり、今は草が好き放題に茂り、見る影もない。庭の全面が芝生で覆われていたころ、妻はわずかな雑草も見逃さず、手に負えなくなる前に、こまめに草を摘んでいたものだ。
今は冬で枯草だが、春から先は哀れな状態になりそうだ。特に忙しいわけでもないが、気力が欠けるのだ。妻が家に居るときは窓から僕の庭いじりの姿を眺めてくれていた。写真の椿は三年前のものだ。大きな花をつけていたが、今年はその影もない。手入れを怠っているからだろう。
来週の日曜日はイースターだ。主の甦りの記念の日だ。甦りの主を信じ妻の祝福を祈ろう。

一点集中

2018年3月18日(日)
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誕生日プレゼントのお花(娘より)

13日が僕の誕生日、15日が妻の誕生日、13日と14日の二日間だけが同い年になる。妻は卒寿、僕は来年卒寿となる予定。(神様のみが知る)。
最近の祈りは妻のこと以外に誰のことをも祈らなくなった。いけないかも知れないが、他の人たちのことを祈る心の余裕がないのだ。子供たち、孫たち、曾孫たち、そして友人たち、すべて割愛している。自然と祈りの課題が妻だけに集中するのだ、神様はどのようにお聞きになっているだろうか。一点集中をお許しくださっているだろうか。自己中心で他人を愛さない心を哀れに思ってくださっているかも知れない。甘んじてお叱りを受けよう。
食事は全てミキサー食だからスプーンで上手に一人食べてくれるが、そうでない例えばケーキなどは、容易に口の中から食道に運べないようで、もぐもぐしている間に口から外に漏れだすのだ。うまく嚥下が出来ないということだ。この間の誕生会のケーキも小さく切っても、口元から漏れ出してしまう。僕はそばに居って漏れ出したものを口にするのだが、これは妻のものだからできるのだ。夫婦とはそういうものなのだろう。不思議な感覚だと思う。

誕生会と聖餐式

2018年3月16日(金)
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庭の梅の木に憩うメジロ(孫の写真)

先にも書いたが12日に妻の誕生会が同じユニットの3月生まれの利用者の方と一緒に行われた。介護士さんたちの大きなイチゴをベースにしたチョコレートでトッピングされたかわいいケーキや、こちらか持って行った三種類のケーキなどを加えて楽しい誕生日会が開かれた。妻もおとなしくその輪に加わり良い思い出となった。僕がケーキを作るということは、本職でない限り、家庭で男の人が作るのはそうとう珍しいらしく、ホームの職員の間では結構評判になった。それはともかく楽しい誕生会だった。
15日は訪問聖餐式が妻の居室で行われた。教会からは牧師をはじめ合計四名の方々が参加して下さった。今回は娘も陪餐させていただいたので総勢七名であった。果たしてパンが受けとれるか、盃を受けられるか。いやそれよりも聖餐式におとなしく参加できるだろうか。僕の脳裏は朝からその不安でいっぱいだった。賛美が行われ祈りがなされ、聖書が朗読され、短いお薦めがあり、それから聖餐の式文が読まれ、配餐された。
その一部始終が妻にとり意味が理解できない沈黙の時間ではないのか。式の途中で怒声を発しないか。パンを上手く受け取ってくれるか、盃を手にしてくれるか、パンを頂くとき式文に合わせて待ってくれるか、盃も式文に合わせて頂いてくれるか。それこそ累卵の危うきを思う心で、僕は細心の注意を払って見守っていた。しかし式の進行には終始静かに見守るように従ってくれた。僕は最後の讃美歌の時、安堵の思いと、いまなお聖餐式の重みを理解し、日頃と違った正常さで聖餐に与かってくれたことに涙がでて、不覚にも嗚咽が止まらなかった。嬉しかったのだ。63年の教会生活が認知症を患っているなかでも、主イエスの恵みによって体に深く刻み込まれ、刷り込まれているのだと思う。聖霊が導いて下さったのだ。感謝。
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